親子3人でなんとなく母子家庭やってます!😳😱😓

離婚を経て母子家庭になって早数年。頼れる親族がいない中、子供二人とそれなりに楽しく生活をしています。そんな他愛のない日常のつぶやきです。

DV・モラハラ元夫との離婚⑥【シェルターから母子生活支援施設へ】

普通に生きていればまずお世話になることなどない施設、女性保護施設(シェルター)。長かったように感じたのですが、ここでの生活も終わってみればあっという間だったのです。

 

目次

 

いよいよシェルター生活に終わりが見えました

シェルター生活にも慣れて(汗!!)きたころ、私の周りで動きがありました。

 

担当職員に、

「Iさん(シェルターでの私の名前。もちろん本名ではありません。)あなたは本当に頑張ってくれています。今まで大変だったのに子どもたちも精神的に大変落ち着いているし、素直ですよね。お母さんの力だと思います。そんなIさんのために、次に住むところをいろいろ探しました。なるべく不便でないところ、仕事もすぐに見つかるところに絞って探しました。あなたなら、どこに行ってもご自分で何とかできるでしょう。」

 

と、告げられました。

 

しかし次に生活する場所は県外の母子生活支援施設でした・・・・。

住み慣れた土地を離れることはもちろん、何かあっても気軽に戻ってくることができない距離に引っ越さなくてはいけなくなりました。それでもせっかく探してもらった場所。断る理由はありませんでした。

 

(DVやモラハラ夫から遠ざかるためには、夫の土地勘がない場所に引っ越しをしなくてはならず、私たち被害者が住みたい土地に引っ越すことができるとは限らないのです。私たちのような被害者を受け入れてくれる自治体があり、夫が簡単に追ってこれない距離であり、できれば母子生活支援施設のような福祉施設がある場所が好ましいのです。)

 

「わかりました。初めての土地で少し不安ですが、お願いします。」

 

私は県外の母子生活支援施設に入所する決心をしました。 

 

 この母子生活支援施設は、入所1週間前に面接がありました。

結果入れたのですが、そこでふるい落とされる人もいたのでしょうか?審査基準は最後まで分からずじまいでした。

 

いよいよ母子生活支援施設に引っ越しです

面接から1週間後、いよいよ引っ越しの日が来ました。

 

私たち3人をシェルターまで送ってきてくれた元いた市の職員が8時半に来ました。久々の再開です。「お元気でしたか?」とあいさつされて複雑な気持ちでした。(仕方ないのですが…。)

 

 シェルターにいる人同士の会話は禁止されていませんでしたが、

  • 本名を名乗ること
  • どこから来たのか、これからどこに行くのか

などの情報交換は禁止されていました。

 

 

これまで、共同生活をした人ともお別れを言わずに出ていかなくてはなりませんでした。(これは少し辛かったです。でも、心の中でみんな頑張ってと応援しました。)

 

出発前に、一番初めの日に入った会議室で申し送りやら預けていた荷物を返してもらったり、シェルターにいたときに私たち親子に入っていた補助金の残金の清算やらをし、(いくらか余っていたようで、現金でいただけました。)

9時半ごろ出発をし、シェルター生活は2週間でピリオドを打ちました。(かなり早いケースだそうです)

 

 シェルターから高速道路を使用して4時間ほどかかる距離でしたが、
  • 途中で義母のところによってもらい、上の子ちゃんの保育園から預かってきてもらっていた荷物を引き取りに寄ってもらう
  • 夫と暮していた自宅に寄ってもらい、私名義の預金通帳をすべて持ってくること
  • 私の携帯電話の番号と、アドレスの変更又は解約をすること
 
の3点を行わなくてはならず、かなりの時間がかかりました。
 
 
  1. まずは、携帯電話のショップに立ちより番号の変更か、解約どちらにするか決めました。要は夫が私に直接連絡できないように・・・・とのことだったので、事務手数料が安く済む【番号の変更】にしました。(解約だと違約金がかかりますもんね。)メールアドレスは、ネットから簡単に変えられるので特に問題なかったです。
  2. 次に、義母のところに行きました。先に連絡を入れていたので、準備をして待っていてくれました。想像以上に荷物は多く、「あれ?」と思いました。義母曰く、「パンやらなんやら入れておいた」とのことでした。
最後に市の職員が「いろいろしてくださったようですが、あくまで夫の両親なので、この先連絡を取ることはやめてほしい。」と、きつい一言を発しました。(夫とのつながりを完全に断つためですが…。)
 
 
義母もこれがどういうことかはすぐに飲み込んでくれ、
「孫ちゃんたちのことはあなたに任せるわよ。私たちも高齢だから、手伝ってあげられることにも限りがあるの。仕方ないこと。だから、これからがんばるのよ。」
と送り出してくれました。本当に素敵な親です。なぜ、息子である元夫があんな風に育ってしまったのか・・・・永遠の謎です。
そして、ありがとうお義母さん。
 
 3.最後に、いよいよ元夫と暮していたあの家に行かなくてはならない時がきました。まだ夫は警察署で拘束されていたので、家に帰ることができました。しかし、与えられた時間は5分。超特急で通帳や持ち出せそうな荷物を手あたり次第に袋に詰めました。
この時、私が一番初めに選んだものは壁かけ時計でした。
「時間がわからないと絶対困る!!」
ただそれだけの理由でした。時計に何の思い入れもなかったのですが、私は真っ先に袋に入れました。(ちなみに今現在も使っています)
あとは、米を残っていた量の半分を持ち出しました。(残り半分はお情けで、夫に残しました。)
今思えば、もう少し金目の物(そもそもあまりないのですが、夫が大事にしていた一眼レフのカメラがありました。)を持ってくればよかった・・・(´;ω;`) 後悔です。
 
そんなこんなで、5分はとうにオーバーしてしまい、申し訳なく戻りました。
 
 
 ここから、高速を飛ばして母子生活支援施設に向かいました。休憩は一回挟みましたが、ほぼノンストップです。大きめのワゴン車でしたが、荷物の量が多く狭かったです。動く倉庫のようでした。
 
この点では私たちは恵まれているほうです。母子生活支援施設に入る人の中には、ほぼ手ぶらで来るような人もいます。子どもの小さいころの写真が1枚もない人もいます。(元夫のところにあって取りに行けないなど・・・)
 
私たちにはシェルターに入る前に、準備期間がありました。すべてではないけれど、ある程度の写真や、へその緒、子どもが保育園で作った作品などお金では買えないものを荷物としてまとめていました。おかげで、その後の小学校で必要となる、
「生まれた時の写真」
に困ることがありませんでした。
 

いよいよ到着!母子生活支援施設

これから再スタートする土地に到着しました。

まずは、閉庁ぎりぎりであった市役所に駆け込み(多分アポは取ってあったと思います)、元いた市の職員とこれからお世話になる市の職員との申し送りや、生活が安定するまでのつなぎになるように生活保護の手続きをしてくれていました。ここでも、言われるままに多くの書類に流れ作業のように名前や住所を書き、小1時間ほど滞在しました。

 

そのあとすぐ、母子生活支援施設に向かい、着いたときはあたりはすっかり暗く、18時半になっていました。

出迎えてくれた施設の職員に部屋を案内され、みんなで荷物を運びこみ、会議室で少し話した後、元いた市の職員は「がんばってね。」と言葉を残し、帰っていきました。

 

時間も時間だったこともあり、施設の職員にはゆっくりしてくださいと言われたため、そうさせてもらうことにしました。

 

部屋と言っても、普通のアパートと何ら変わりなく、もちろん入口にカギもあります。

普通のアパートと違うところがあるとするなら、職員が常駐していることだけです。

 

洗濯機・冷蔵庫・テーブル・レンジ・エアコン・ガスコンロなどは貸してもらえ、すぐに生活ができる状態でした。

 

まずは、すぐに使う荷物の整理をしてから、気になっていた義母から受け取った荷物の箱を開けてみました。上の子ちゃんの保育園で使っていた、メロディオンや保育園で保管していた作品などと一緒に、最後の卒園式までの写真が貼られることのなかった、卒園アルバム(急な退園だったため、先生が急いで仕上げたそうです)と、クラスの子の寄せ書きが出てきました。

上の子ちゃんに見せると、ボロボロ泣いていました。保育園が大好きな子でした・・・。

 

卒園させてあげたかった…。今でもそう思っています。辛い思いをこんな小さい子にさせてしまった自分をどれだけ責めたか・・・。何年か経った今でも、悔しい思いです。

 

 箱の中には一緒に義母が近所で買ってきたパンも入っていました。

ありがたくこの日の晩御飯にさせてもらいました。

 

 さらに箱の一番底から、1通の封筒が出てきました。開けると、夫の通帳と手紙、現金が入っていました。

手紙には

  • これからの生活をがんばってほしいこと
  • 少しだけど現金を役立ててほしいこと
  • 市役所の人に頼まれて夫名義の通帳を準備したこと

が書かれていました。

 

 義母の心遣いにまた涙があふれてきたのです・・・

 

 

一通りの荷物を片付けた後、入浴を済ませこの日は床に就きました。